透明人間の輪郭

紡いだ言葉が私の輪郭になる。

「彼女の人生は間違いじゃない」を観た

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彼女の人生は間違いじゃない
 2017年7月15日公開
 監督 廣木隆一

 彼女の人生は間違いじゃないという映画を観た。
作業をしながら3回程観た。

 あらすじについては以下の通りだ。

仮設住宅で父と2人で暮らすみゆきは市役所に勤務しながら、週末は高速バスで渋谷に向かい、デリヘルのアルバイトをしている。父には東京の英会話教室に通っていると嘘をついている彼女は、月曜になるとまたいつもの市役所勤めの日常へと戻っていく。福島と渋谷、ふたつの都市を行き来する日々の繰り返しから何かを求め続けるみゆき、彼女を取り巻く未来の見えない日々を送る者たちが、もがきながらも光を探し続ける姿が描かれる。

彼女の人生は間違いじゃない - Wikipedia

 レビューを覗くと被災しながらも市役所で働く”彼女”が東京のデリヘルで働く二重生活をする意味が理解できないため映画の描写が不十分だとするレビューが目立った。

 私は”彼女”のその意味がわかる気がした。

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高速バスで東京へ向かうみゆき

 彼女は東京に行けば自分の置かれている状況を変えることができるかもしれないと考え、試してみているものも人生を賭けてまで変化を望むことができない状況であると考えた。
彼女は冷静で賢く、行動力も度胸もある。

 

現代の日本は権利上自由である。
どこに住むのも、どの仕事をするのも自由である。
住みにくかったり、不自由があれば住んでいる場所にしがみつく必要はないのである。
現代の日本は村文化から個人の時代へと移行しているので、寧ろ苦しいなら自分の判断で住みやすい場所、心地いい場所に住むことこそが責任のある判断だとする価値観も認められつつあると思う。

 

彼女は被災者である。
そして、働かなくなってしまった父がいる。
市役所の職員として被災という現実に向き合う必要がある。
彼女が漠然と手にするだろうと考えていた未来は失われてしまった。
理不尽である。彼女に非があるとは言えないだろう。
現代の価値観に照らし合わせるなら、引っ越したって構わない。
彼女の身一つで他に安住の地を求めて旅立って差し支えないのである。

 

彼女は現代の若者である。当然町を出ることを考えたのだろう。
しかし、すべての人があっさりとその決断を下せるほど強くはない。
その葛藤を象徴的に表す行為が週末に東京でデリヘルで働くということではないだろうか。
私は町を出て一人で東京で稼ぐこともできる。
その力があること、可能性があること確認しに東京へ赴いているのではないだろうか。
どんな人生の可能性があるのか追求したいのだ。

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デリヘルの従業員三浦の夢と家族について聞く

そして、彼女は東京で怖い目に会いながらも、デリヘルの従業員三浦のように家族も夢も手に入れて幸せになれる未来もあることを知る。
デリヘル仲間に「一緒に東京に住まないか」と訊かれて「うん」とさえ言ってしまえば、人生が変わってしまうかもしれない瞬間にも直面するが、彼女は結局、福島に残る決断をする。
最後に犬を飼ったのはより強固な福島に残る理由が欲しくなったからではないだろうか。

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高速バスに同乗していたデリヘル仲間にルームシェアを提案される

彼女が東京で暮らせば幸せになれたかもしれない。なれなかったかもしれない。分からない。
福島に残ったら?市役所の仕事があって、被災した現実がある。
市役所の安定した仕事があることが幸せかだろうか。デリヘルの仕事していることが不幸せだろうか。
被災した現実と向き合い続けることが不幸せだろうか。可能性のある東京で暮らすことが幸せだろうか。誰にも分からないのである。
福島に残る決断をした彼女も確信があったわけではないだろうし、東京へ行くことが不安だっただけかもしれない。
元カレと一度向き合ってみることで確信が得られたようにも見えなかった。

 

私たちは、いつでも変わらない決断をすることができるし、人生を大きく変える決断をすることもできる。
現代において、変化に合わせて変わっていくことこそ正しいし、幸せの可能性を追求することこそ生きる意味といった価値観に傾いているように感じる。
特に地方で、古い価値観で教育された私たちはそんな判断を簡単に下すことができるだろうか。
ことすれば、被災地に留まって彼女のような生き方をする必要はないし、間違った選択だとする人もいるかもしれない。

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被災写真展を見た後仮設住宅の駐車場、父とみゆき

この映画では、震災に被災するという分かりやすい理不尽に直面している。
人は被災に限らず様々な理不尽や挫折に直面することがある。
大きかれ小さかれ不満を抱えながら目の前にある現実の中で生きている人がいる。
可能性に気づきながらもそこに踏み込めずに、不満と共生することを選んだ人がいる。
それを間違っていると断言することができるでしょうか。つまらないと切って捨てることができるでしょうか。

 

間違いじゃないというのは、彼女がデリヘルで働いてること自体が間違いじゃないと言っているのではなく、人生の可能性を見出しながらも不満のある福島に残る現状維持の決断をしたことが間違いじゃないと言っているのだと思いました。

同じ監督の「ここは退屈迎えに来て」と同様、地方の若者の心理を生々しく描いた作品だと感じました。

 

誰もが幸せになりたい。幸せになりたかったとぼやいている。
”可能性”だけならそこかしこに転がっているかもしれない。
それを掴まなかった人はその人の責任で幸せになれなかったのでしょうか。

 

私は、理論的には可能性に乗らなかった人が幸せになれなかったことを嘆くのを間違っていると感じるのはわかります。嫌なら仕事辞めればいいじゃんという心理です。正しいです。アドラー先生も似たようなこと言ってます。
でも、正しくないけど、間違っていないのです。
人生において、哲学的な正しさを常に振りかざせるのは、振りかざせたのは、強い人、幸運な人だと思います。

そんなの弱者の言い訳だろと思ったそこのあなた。恵まれた人生送ってんだろーな羨ましいぞ、コンチクショー。