アニメ平家物語は家族の呪いと未来が見えていても生きていく物語
アニメ平家物語を観ました。
いわゆる最近のアニメの絵柄ではなく、少し懐かしい様な新しいような絵柄で、平安時代後期の雰囲気が表現されていて毎回楽しみでした。
詳しい人物相関やあらすじは作品や各種まとめで確認してください。
アニメ平家物語は戦記物語として語り継がれている平家物語に未来を見ることができる目を持つ少女琵琶と亡者を見ることができる平重盛というフィクションが付け加えられた作品です。
物語には多くの登場人物が出てきますが、基本的に琵琶、重盛、徳子が主軸となって繰り広げられてたと思っています。
アニメ平家物語には大きく二つの要素があると思いました。
一つ目は、平家の人々が抱えた家族の呪いです。
二つ目は、見えている未来です。
1.「家族の呪い」
現代は個人の意思が尊重される傾向にあるため忘れがちですが、私たちは生まれながらにして、家族のストーリーを負っています。
保守的な家に生まれれば、保守的な人たちの中で言語を習得する段階から、保守的な言葉の中で育てられます。これは逃れられないことです。
成長して、そこから脱するには軋轢や葛藤と向き合う必要が生じるでしょう。保守性が低い家に生まれれば、その軋轢を人生で経験することはないでしょう。
そういう意味で人生は不公平です。運命というものは存在しないにしてもある程度逃れることのできない家族が引き継いできた運命のようなものが存在しています。
登場人物は逃れられない運命として平清盛の子であり孫であり、親族として生まれます。
平清盛はその行いから、多くの人々に恨まれ、重盛の目に見えている亡者たちに呪われています。皆は平清盛の命により戦争を行わなければならなかったり、一族の呪いに苦しめられることになります。
重盛はストーリーの中で、一族が抱えてしまっている呪いが見えている存在なのです。
家(平清盛)の運命に逆らったのが重盛と徳子です。
徳子は父清盛に逆らい生き延びて、重盛は家の運命から皆を守ろうとしてその大きさに負けてしまいます。(本人自身が逃げたがったという描かれ方もしているようにも見えます。)
その他の登場人物は家の運命を受け入れてそれにあらがうことなく生きます。または逃れるように自ら命を絶ったり死に場所を選びます。
例えば、維盛は舞を舞っているほうが似合っていると何度も作中で言われます。平家に生まれていなければ、舞の名手であったかもしれません。戦場に生きなければならなったのは、すべて平家に生まれたからです。
琵琶はなぜ、皆が生きていたことを語らなければならないと言っていたのか。それは平家の運命の中で死んでいった皆を平家の人間としてひとまとめにで語らせないためなのかもしれません。
恋をし、子を慈しみ、風流を好んだ平家でないものと変わらない感覚を持ち、それでいて平家の運命を受け入れたのだと。
私たちは、平家物語を聞いている人たちは生き残った人々です。平家にかかわる合戦に巻き込まれずに又は巻き込まれても生きてきた人の子孫です。しかし、もし家が違えば死んでいたかもしれないのです。
その死んでいった人々は同じような感性を持った人間なのです。
人はみな家族の物語を時に疎ましく思いながらも、その家族なしでは世界に生まれえない存在です。
もちろん、疎むことのないような人生もあるでしょうし、平家物語の中でも生まれをはっきり恨むような描写も少なかったと思います。
寧ろ生まれを誇るように人生を受け入れて死んでいったようにも見えました。
2.「見えている未来」
琵琶の目には未来が見えています。
琵琶はこのアニメオリジナルのキャラクターであり、平家物語が史実に基づいたノンフィクションであるとすれば、琵琶の存在はフィクションです。
もちろん未来が見える眼も亡者が見える眼もフィクションです。
現代の私たちは平家物語の内容を知っているため、そういった意味では琵琶と同じものが見えます。
身内ばかりを取り立てて、力で支配を広げようとした支配者がどうなるか、平家物語の内容を知らなくとも、歴史を学ぶことのできる現代人には明らかなこととも言えます。
歴史に限らず、私たちは、膨大なインターネットの情報を得て様々な世界の家庭の個人の物語を学び知ることができます。
それゆえに、現代人の私たちは何かの選択を迫られたときに選択したときの様々な可能性を知ることができます。
選択の結果どうなるのかどうするべきなのか、調べて色々な可能性について知ることができます。
まるで未来が見えているかのようです。
少年漫画であれば、主人公の琵琶は平家を滅亡から救うために未来を変えるために奔走するかもしれません。タイムリープも駆使できるようになるかもしれません。
しかし、琵琶はただ見届けることを選びました。(自身のことではないからととることもできますが、、、)
つまりは、良くない見えている未来があっても生きいくことが人生なのだと、未来が見える一つ上の立場から考えているように見えます。
人間が社会的な生き物である以上はある程度運命というものはあるのかもしれません。
立ち向かったがために、不幸になったり、運よくよくない人生から逃れて生きて行けるということもあるかもしれません。
琵琶は未来を変えることができないことを分かっていたのかもしれません。
それでもあきらめなければ、徳子は生き残った。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。
3.私たちが生きているのは
アニメ平家物語は、「変えられない運命はある。変えられることもある。」のような当たり前のことを改めて伝える作品なのかもしれません。
現代の日本人がつい忘れがちな生まれによる格差、運命、しかしながら、私たちが今生きているのはその家に生きる私たちの祖先が運命を受け入れたり、逆らったりした結果生き残ったから、、、
あの花が咲いたのはそこ種が落ちたからで
いつかまた枯れた後で種になって続いてく
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何回だって言うよ世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても
今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ
羊文学の「光るとき」内容についてどのくらいアニメと合わせたのか分からないけれど非常にしっくりくるなあと思う次第で。
すべては歌詞に表れててここまで書く必要もなかったのではないかと思う次第で。
歌詞の全文を読んでない方はぜひアニメと合わせて読んでもらいたいです。
平家物語は琵琶法師が琵琶を弾きながら語る平曲として語られた歴史があるが、「光るとき」はアニメ平家物語のエッセンスを十分に伝えていける曲だと思いました。